山菜を食べながら思ったこと

5月の連休、墓参のため秋田に帰った。幸いにも東北の中で東日本大震災の被害は少なく、桜をはじめとして花たちがいっせいに咲き誇る遅い平穏な東北の春の訪れ。秋田県内では10か所以上の仕事をしてきたので、久しぶりに昔の作品を訪ね震災後の無事を確認し、近くの温泉に日帰り湯。

乳頭温泉郷の鶴の湯。秘湯として有名だが、朝のオープン時には行列ができていた。湯上りの昼食は山芋鍋と岩魚塩焼きに山菜づくし。コゴミのてんぷら、イタドリの芽の和え物、ゼンマイ。帰り道には水ばしょうの自然の群生地を散策。東北のよさを再認識した一日だった。手付かずの自然と美味しい食材、秋のきのこの季節も楽しみである。

温泉にしても山菜にしても自然からの直接の恵みそのものに触れることで身も心も癒される。もしかしたら縄文時代の人たちも同じように温泉につかり、同じような山菜を食べていたのかもしれないと思うと楽しくなってくる。

そんな自然の恵みを採取する生活から栽培する農業へ、そして品種改良や農薬でさらに安定した収穫を求めて科学的な農業へ、さらには人工光だけで育てる野菜工場という工業化も現代では一般化してきている。季節や天候に左右されずいつでもどこでも好きなものが食べられることを便利と感じ、供給する側も消費する側も疑いなくその方向へ突き進んでいるわけだ。いわゆる料理店もどんどんチェーン店化マニュアル化して、全国画一でどこでも安心して頼める安いメニューなどという店が増えているようで、秋田市内でも山菜(今回は、ホンナ、シドケをいただきました)がつまめる店は一握りになってしまったようだ。日常での便利さや気軽さがいつの間にかほんとに大切にしたいものを失わせてしまっているように思う。しかもその便利さの裏には石油や電気が無尽蔵なものという無意識の前提があることが恐ろしくもある。

住まい方についても全く同じような構図が見えてこないだろうか。工業化住宅、商品化住宅、エコ住宅、と個々には信頼に足る成果を具現化しているとしても、キャッチフレーズとして便利に全国一律にいきわたるときには、住まいのほんとに大切な部分がいつの間にか見過ごされてしまっているのではないかと思う。エネルギー問題や耐震に対する現時点での最善の答えを求めるのと同時に、人の絆や家族のあり方、地域のあり方についてあらためて課題を掘り起こしながら住まいの設計に携わっていかなくてはならないと感じている。震災後のいち早い復興を祈りつつも、この機会が社会全体のものの見方を見直す契機にもなることを願っている。

(荻津郁夫)


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