年末に思った事

今年も又年明けにコラムの順番が廻って来た。

大晦日は、例年のごとくテレビの3チャンネルで“第九”を聴く。そして演奏が終わったところでチャンネルを1に変え、“紅白歌合戦”で久しぶりに知らない歌手たちの歌を聴いてみる。

何か新しい物を感じ、それを最近の建築の傾向に置き換えてはみようとするが、なかなか言葉にはならない。が、なぜか女性歌手の方に新しさを感じる点が多いように感じた。

今年は身内に不幸があったので、夜中一人、厳かなミサ曲を聴いてみる事にする。愛聴しているCD盤でバッハの“ロ短調ミサ曲”を。

僕は昔仕事帰りの車の中で、よくこの曲を聴いていたものである。一人夜の町をドライブしながら、音の世界に同化している心地よさに浸っていたのです。その頃スティービーワンダーも好んで聴いていた。私の心の中で、二つの世界は矛盾する事無く共存していたのです。

ミサ曲のような音楽を聴いていると、改めて木造建築の中で生活してきた我々の先祖と、石造りのボールト天井の下、音の反響する空間の中で生活してきた人たちとの違いを実感する。

昔ミラノで生活していた或る時期、アパートを探していて、偶々事務所の所長に紹介された教会の離れの一室を思い出した。それはガランとした高いボールト天井の空間だけで、家賃はとても安かったが、トイレも水廻りも無く、シングルベッドがただ一つ、ポツンと置いてあったのを覚えている。結局この部屋は借りない事にした。

この経験で、何故イタリアでは家具の事をモービレ(動かせる)という意味かがよく解った。

以前、四声合唱のミサ曲を聴いていると、ジョンレノンの“イマジン”のオリジンを見たように感じたのでそれを文章にした事がある。

“祈りの音楽”と言うタイトルで、欧米のポピュラー音楽、特にイギリスのそれには、今でも伝統が無意識裡に生きているという意味の事を書いたように記憶している。

ちなみに、定評のあるクラシックのコーラスグループは、イギリスが断然一番多い。

そしてその声楽は、元はと言えば教会音楽から発生したものである。

しかし祈りの願望は重い自我の裏返しでもあるのでしょうか。それ故キリスト教では人間を“罪の子”と言っているのだと思う。

今の自分には、本来の日本人が持っていた、自然に即した淡白さが好きです。

だから私にはミサ曲も、ブルースも、ロックも、そして時には矢沢永吉も、それらが共存した世界が、それが自分にとっては自然な姿なのだと思う。

多分これが現在の、大方の日本人の心の風景であり、それをそのまま全てのジャンルに当てはめると、現在の街の風景になっているような気がする。

(池和田有宏)

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