"第九"を聴いて考えたこと
昨年の暮れはベートーベンの“第九“に明け暮れてしまいました。テレビでも三回程聴きましたが、おかげでこの異色の交響曲がよく理解できたように思います。
そのユニークさは、そもそも出だしの音をチューニングしているような入り方からして型破りです。
元々彼の作品の出だしは、三連符のような単純な音がきっかけになり、それが次第に音の流れに発展してゆく例が多いようです。有名な“運命“はその典型です。
ベートーベンはシラーの詩に曲を付けることを30年間も暖めていたそうですが、シンフォニーに合唱を取り入れた最初の作曲家だそうです。この頃既に彼の耳は全く機能しなくなり、沈黙の世界の中に生きていました。彼は魂の叫びのような音楽を作曲する事を切望していたのでしょう。合唱を取り入れた理由を“第九”は初めからその為の音楽だと考えるとよく理解できます。
合唱を入れるための伏線は第三楽章だと思います。これは大変綺麗で静謐な曲です。しかし彼はここで終えず、最後の合唱で盛大なフィナーレにしたかった。 第四楽章での最初のテノールの入り方もユニークです。まるで刀で切り込むようにして音の隙間に入ってゆきます。初めて聴いた人は大変奇異に感じたでしょう。しかし今では世界中の人が待ちかまえる瞬間の場面になっています。私達の耳がそのように慣らされたのです
例えばマーラーにも声楽を取り入れたシンフォニーが有りますが、ベートーベンとはその意味が全く違っています。その差を一言で言えば“構成の必然性”から作曲していたかどうかだと思います。
ベートーベンは構成的な作曲家だと言われていますが、それは常に彼が対比による緊張感で作曲をしているので造形的な印象を与えるからだと思います。
モーツァルトの後にこのような作曲家が現れて共に古典派と呼ばれているのは面白いことです。
彼がウィーンに出てきたばかりの若い頃、あこがれのモーツァルトに初めて会った時、彼に軽くあしらわれた話がありますが、もしモーツァルトがもっと長生きして晩年の彼の曲を聴いていたら、どんな印象を持っただろかと、あり得ないことを考えたりします。
確かにベートーベンと比べ、あまりにも綺麗すぎるモーツァルトの曲を聴いていると、とかく表面的に流れ、ロココ調のムード音楽になってしまうきらいがあります。しかしそれは聴く人の心を反映しているのであって、彼の音楽の本質ではありません。
私は若い頃はモーツァルトの方を圧倒的に聴いていました。
モーツァルトと言うと、小林秀雄のモーツァルト体験が有名な話になってしまいましたが、私も若い頃似たような経験をした思いがあります。ピアノ協奏曲24番の第2楽章の静かでもの悲しい旋律を聴いていた時にです。それについての説明は、“音楽の中で時間が止まってしまう忘我の境”とでも言うしかありません。
彼の曲は大変繊細で、とかく音を聞き逃してしまい勝ちなのですが、どちらかというと、心が沈んだネガティブな心境の方がより感じ取り易いのは私だけでしょうか。
今の自分はその頃と比べて遙かに性能の良い音響装置で聴いています。しかし果たしてあの頃に比べ、より感動して聴いているかと問われれば、それは疑問だと思います。若い頃の感受性の強さもありますが、結局人は心で音楽を聴いているという単純な事実に結論付けられるのでしょう。
いずれにしろこの二人を比べると、ベートーベンの方が方法論としてはより革新的、かつ現代的と言えるのは間違い有りません。
私の好みで言えば協奏曲、特にピアノ協奏曲とオペラはモーツァルトが一番です。オペラの中では“魔笛”が特に好きですが、晩年の彼が少ない金額で作曲を引き受けた事を思うと泣けてきます。
一方ベートーベンの方は、多分全てのジャンルについて、作曲数ではではモーツァルトに劣ります。しかし密度の濃さで言うと、彼の作品には決して駄作がありません。従って特にこれと言った好みのジャンルは有りませんが、やはりシンフォニーが私にとって一番印象的です。
(池和田有宏)
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