三者三様

鳴かぬなら  殺してしまえ  ホトトギス

鳴かぬなら  鳴かせてみよう  ホトトギス

鳴かぬなら  鳴くまで待とう  ホトトギス

テレビの時代劇で信長や秀吉、家康が出てくると、亡くなった父はよくこれらの俳句を譬えに出して三者の違いを話し始めたものでした。当然信長達が自分で詠んだものではなく、インターネット上の辞典では江戸時代の松浦静山と言う武士が詠んだ事になっています。その真偽は解りませんが、二者でなく三者である事にこの逸話の面白さがあるように思います。

十年程前、私はふとしたきっかけから韓国語を勉強し始めました。韓国語は日本語と文法がほとんど同じで語彙も共通する部分が多く、英語などと比べれば馴染み易く感じられます。そのまま学び続けていればもう少しものになったかもしれませんが、落ち着かない性分の私は、数年後には調子に乗って中国語の勉強を始めてしまいました。

中国語はそれ程馴染み深く感じられない事もあって、今でも勉強を止めてしまった韓国語の実力に追いついていません。しかしそれぞれの言葉を学ぶと言う事はそれぞれの文化に触れる事でもあり、日本を含む三者を比較する事でふと気付く事があったりします。

身近な例を一つ挙げると、皆で一緒に食事をした時に誰がその費用を支払うか、と言うような場合にも、それぞれの考え方に微妙な違いが現われる事があります。

以前に在日韓国人に韓国語を教えてもらっていた私は、ある日彼と一緒に食事に行きました。日本での事であり、支払いは当然のように割勘だったのですが、それを聞いた韓国の知人は、全く納得がいかないと言っていました。目上の人と目下の人が食事に行くのだから、目上の方が払うのが当然だろう、彼はよっぽどけちなのか、それとも何か事情があるのか?と言う訳です。一般的に韓国では目上の人を大切にすると言いますが、それは同時に目上の人にはそれなりの義務や責任が求められる、と言う事でもあるのです。

一方中国の例として、最近以下のような話しを聞きました。ある仲の良い同世代の三人は、よく食事に行ったり酒を飲んだりします。しかし支払いはいつも決まって同じ人がする事になります。何故か?それは彼が三人の中で一番裕福だから、と言うのです。お金があるのだから負担をするのは当たり前、そうしなければその人はけちとして軽蔑され、代わりに払った人は見栄をはっているとばかにされる、と言う事です。合理的と言えば合理的、しかし私にとってはなかなか馴染む事のできない考え方でした。

これらはどちらも私の個人的な経験の範囲内の出来事です。しかしその経験から考える限り、韓国人の発想は、解るけれども自分達とは少し違うように感じられ、中国人の発想は、面白いけれども自分達とはかなり違うように感じられる、と言う場合が多いように思います。そしてその事は、韓国語はかなり身近に感じられるのに、中国語はなかなかそう感じられない、と言う事情と、平行するかのごとく似通っているように思われます。

この調子では何時まで経ってもどちらの言葉も上達しないかもしれませんが、言葉を通して少しづつでも様々な世界に接していたい、と思っています。

(栗原正明)

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