構造偽装問題は「住宅」を「買うもの」にしてしまったことが原因ですね

今話すとしたらこのネタしかないでしょう

設計事務所を始めてから、いや建築学科の学生になったときから同じ生活なのですでに25年間。毎日遅くまで図面を描き、打合わせの資料をまとめ、現場の写真を整理し、土日の休みもままならず、お金に余裕がある訳でもなく早10年が過ぎました。莫大なエネルギーを建築に注ぎ込み、建築を愛している者にとって「構造計算書偽装問題」はとても悲しい出来事となりました。 メディアにはうさんくさい関係者が「設計と施工の分離の原則」を知らないまま本質を理解していないコメントのおかげでなにか建築業界?の評判は地の底まで落ちた感があります。

建売住宅にも設計者がいる

「設計者/建築士」は「報酬を貰って設計する専門家」です。したがって報酬を誰から貰うか?によって意識は大きく変わると思います。スポンサーが「善」ならば良いが、「悪」ならば建築は一瞬にして悪意に満ちたものになります。

例えば建売業者がスポンサーならば、その下に建築士を雇い、建売業者は建築士に様々な要求をする。少しでも儲けるためには「建物は何でも良いから、図面は早く!工費を安く!売れるように見栄え良く!」と要求するわけです。要は土地だけでは儲けが薄いから建物を安普請で建ててセットで売る。今も町に溢れているどうしようもなくヘンテコな建売住宅群はこんな仕組みで出来上がっています。例の姉歯建築士はこれをマンションという市場でゼネコンの下請けとして設計業務をした結果なのです。これがどんな問題を孕んでいるかはすでに多くの人が気づいているはずなのですが、誰も建設会社の注文で設計をしたことに違和感を持つTVコメンテーターがいないのは不思議なくらいです。

建築家は扱いづらい?

一方「建築家」はどうだろう。建築家はゼネコンなど施工者の下にはつかない自立した存在である。発注者である施主との直接契約のみを個人の信用で契約し、発注者側の技術的、社会的代理人となって意見を述べる存在です。

施主が希望した形態であっても社会的におかしな事象であったり、間違っていると思ったり、工事費が安すぎたりと判断する時は、それを個人として主張し止めさせる。また既存の常識になっていることに対して再度考えて、異議を述べたり提案をする。利益になびかない、カネを払っても言うことを聞かない独立・自立している面倒な奴なのである。だから施主の絶対的な信頼が無ければすぐにクビであるが、一緒に良い建築を目指して議論すればこの上なく職能と力を発揮する存在なのです。したがって建築家は賄賂も受け取らないし、政治献金もしない。自立しているので言いたいことが言える、実は巨悪に屈しない、少数派の味方で、弱い者の味方で、社会の味方なのです。

家はいつから建てるものではなく買うものになったの?

家・住宅が「買うもの」になったのは1970年代。それ以前に住宅産業という言葉は無かった。住宅産業の「商品」はコスト競争、量産化、ブランド化といったあらゆるマーケッティングの操作対象となってイメージを作り売る。この経済市場の過激な競争の歪みが「総合経営研究所の指導+構造計算書偽装」に顕われている。(なんで総合経営研究所のコンサルティング料や紹介料が設計料より遥かに高いの??誰も不思議に思わないのかなあ) 建築も住宅も「買うもの」ではなく「一緒に作るもの」であり、そのことに大勢が気づけばきっとみんな幸せなのです。そもそも「住宅産業」という言葉自体がおかしいのです。建築を作ることで利益を莫大に生むような産業であってはならないはずだし、正義感と使命感を背負って頑張るものです。それが歪んでしまっていることはやはり住宅を「商品」にして買うものにしてしまったからだと思えてなりません。(いやはや長文失礼)

(鈴木信弘)

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