つながっていること/すべて/ひとしく

2004年の晩秋、ウォルフガング・ティルマンスの作品をつづけて見る機会があった。

はじめて見たのは、10月の末、金沢21世紀美術館のオープニング展で。

その時は、名前も知らなかった。

林立するホワイトキューブの展示室をめぐり、その人の部屋に入ると、壁には無数の写真のプリントが貼ってあるだけなに、ふいに、不思議な気持ちになる。

知っている、いや、始めての感じ?

この感じはなんなのだろう、と気になりながらも、そのままに日々は過ぎていた。11月に入って、かねてから友人に勧められていた展覧会を見に、東京オペラシティのアートギャラリーに立寄り、展示室に入った瞬間、ああ、この人のことだったのか、と、偶然というより、必然を感じた再会をした。このようなことは、誰にでも時おり起こる嬉しいことだと思うが、それは、特別なこととなる。

そして、いつものオペラシティギャラリ-の空間はあきらかに変容していた。

そこには、金沢で見たのと同じ、しかし圧倒的な規模で、友人と思える人々や、天体、窓辺の花、排水溝にはいる寸前のねずみ、上空から眺めた都市、ぬぎ捨てられた衣服の襞、直接投影された光の動き、など、さまざまな事象の写真たちがある。それらは、大きくひきのばされたり、小さくやきつけられたり、大小さまざまなサイズで、展示室の壁全体に、混然と、しかし、特別な間合いで、ダブルクリップや、テープで、直接的に貼ってある。

この直接、貼ってあることによって、今、ここで「見ている」ということを、見ているひとに伝えている。

はじめて見た時は、これらの写真と写真の関係は何なのか、考えてしまう。しかし、すぐにその必要のないことに気づき、そのようにカテゴライズして事象を見ること、事象に優劣をつけること、事象に個別の意味を探すことから開放され、日常の一瞬から普遍的な事象が同居する空間に心地よく身をまかせていくことになる。

具象的で具体的な写真にもかかわらず、感覚の自由なさまよいを許され、そのあるであろう世界につつまれ、覚醒されていく。そして、世界が大切なものに思えてくる、不思議で、とても好きな感覚だった。

「僕は写真をとる、世界を知るために、つながるために」

と、ポスターには、すられてあった。

子供のように無垢の反応をわけへだてなく対象に向けながら、個人的な思い入れのような甘さに陥ることなく、写真を通して見て(撮って)いることが、他のなにかにもつながっている、というような、共有のまなざし、がそこにはある。

世界をフレームに切りとりながら、同時につなげている、まなざし。

その目が、美術館のホワイトキューブの境界までも揺らしていたのかもしれない。

そのことによって、見るものの感情も、静かに、揺れはじめている。

個人住宅をつくるときも、椅子をつくるときも、あるいは、公共の大きな建物を考えるときも、ちいさな器を考えるときも、このようなまなざしに近づけているか、いまだはっきりとしたカタチにならない問いかけであるが、彼の写真の在り方―ティルマンスの目―は、ここしばらく、心の中からはなれないであろう。

(宮 晶子)

(ウォルフガング・ティルマンス展:

 12/26まで、東京オペラシティアートギャラリーにて開催)

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