横浜で経験した東日本大震災

突然の地震でした。 2011年3月11日、その日から日本の風景が変わってしまいました。 東日本大震災の話しをします。

その日は、馬車道の事務所4階で仕事をしていました。そろそろ3時というころ突然建物が揺れ始めました。何度かこのビルで経験していたのでそれほど動揺することはなかったのですが、一向に止む気配が無くむしろ揺れは大きくなっていきました。廊下に出てビルの軋む音に身の危険を感じ始めた頃、その場にいた数人が誰となく屋上に逃げようと声をかけ、皆それに従うことになりました。屋上に避難した後も揺れは数分続き、その後も何度か余震がありました。

結局その日の電車は止まり、歩いて平沼の自宅に帰りました。部屋の中は本棚がくずれて錯乱していました。その後は片付けに追われ、TVを見る事も無く床につきました。

翌日は日差しの心地良い朝でした。TVをつけると、どの局も地震の報道でした。津波が丸ごと集落を飲み込んでいく映像、水没した街、解説者がやや興奮してその映像を解説していました。窓の外はいつもと変わらずのんびりした風景なのに、TVからの映像はまるでフィクションのようなアンリアルな世界で、そのギャップにしばらく唖然とし、徐々に事態の深刻さ異常さに気がつく始末でした。

この地震で私の故郷は被災していないのですが、仮に自分の故郷が丸ごと無くなるというのは想像できませんし、したくもありません。今回の津波が街を丸ごと飲み込む映像や、基礎を残してなにも無くなった街の映像を見るたびに、風景や土地の記憶が無くなることが、一人の人間からどれだけ大切なものを奪ってしまったかを思わざるを得ませんでした。

水が引いた後の荒涼とした風景の中で、呆然と立ち尽くす老人の映像を見た時、涙があふれて止まらなくなりました。記憶や生活の全てが強引に押し流されて戸惑う姿に、私は胸がいっぱいになりました。

いま、人と人の繋がりが見直されています。人の繋がりだけが支えになっている人達がいます。風景を失った人にとっては、「繋がり」が生きて行く支えであり、わずかな希望だと思います。精神的な拠り所である土地、街、風景を喪失したとき、もう一つの支えになるのが「人の繋がり」だと気づいたのだと思います。想像を超えた天災には無力ですが、人の繋がりを作る事は今からでも私たちに出来る事です。

(安田博道)

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