チューインガム

浪人時代のことだから、もう20年以上も前のことだ。

同じ大学を目指す浪人仲間の実力はお互い知っていたから自分のポジションも見えていて、夏過ぎには自分が志望校に受かる見込みはほとんど無いとわかっていた。家庭教師やコンビニのアルバイトをして受験準備費用は自分で賄わなければならなかった。私学に行く経済力は無く、さりとて美大系の建築科という志望を変える柔軟さも持ち合わせていなかった。

今にして思えば狭く不安定な足場板の上を歩くような日々だった。

学科の勉強から逃げるように、週の半分は大きな水張りパネルとイーゼルを担いで代々木体育館や絵画館、国立博物館、根津神社などに建築写生に出かけた。

建築写生も受験科目の一つではあったが、共通一次、二次試験の実技を通過して初めて受けられる科目で、その前にやらなければならないことは他に山ほどあった。写生に行けば同じ大学を目指す浪人仲間がいつもどこかにいて、描いている時間より絵を眺めたり絵の具を乾かしたり、果てはビリヤードに繰り出したりで遊んでいる時間のほうが多かった。

初秋のある日、いつものように建築写生に出かけた帰り、電車のドアにもたれて立っているときだった。楽観主義の私もさすがに後悔と焦りと絶望、そして途方もない疲れに襲われた。大学に入れなかったらこの先何をやって生きていこうか、生きていけるだろうかなどと考えていた。

どんな顔をしていたのかはわからないが涙が出てきそうだったから、たいそう悲痛な顔をしていたのだろう。

途中駅で私が立っている側のドアが開いた。ホームに降りる乗客のひとりが、私の胸のポケットにすっと何かを差し入れ肩をぽんと叩いた。はっとして目で追うと、改札に向かって歩きながらこちらを振り返り笑顔で軽く手をあげる人がいた。

見知らぬ若いおじさん。

ポケットを見るとチューインガムが2枚入っていて、なんだか本当に泣けてきた。

結局、その翌年も私はまた建築写生に出かけることになった。時々チューインガムを噛みながら、相変わらずイーゼルを立てて鉛筆と筆を走らせた。当初の志望校を変えることも考えなかった。そして、その翌春に遅咲きの桜が咲いた。

そんなこともあって、今こうして建築の設計を生業としている。

(神田雅子)

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