空手はトラに勝てるのか
WBAライトフライ級タイトルマッチ(8月2日亀田興毅対ファン・ランダエタ戦)のリングサイドに、かつて「猪木対アリ」「猪木対アミン大統領」「オリバー君の招聘」「トラ対空手家山元守」などを手がけたプロデューサー康芳夫氏がいました。特異な風貌からミュージシャンの内田裕也氏と見間違えた方も多いかもしれません。インターネット百科事典「ウィキペディア」によると現在、「ヒトクローン計画」が進行中とのことでした。
試合を見ながら、2001年から1年間、朝日新聞社「論座」誌に連載された磯崎新と福田和也の対談「空間の行間」(※1)を発案・企画したのも康氏だったことを思い出し、オリバー君から磯崎さんまでを並列に企画の材料にしてしまう縦横無尽の構想力に改めて敬服いたしました。とまれ、日本人の空間感覚と日本の文芸というものが、それぞれの境界を超えてあれほど密に語られ、記録されたことは、まったく幸運な出来事だったと思います。古代から近代まで、建築は、何某かの出来事や文芸とシンクロすることによって古典となり、同時に物事の核心を示唆する媒体になっているわけです。
ようやく長い梅雨が明けて、折口信夫の「死者の書」(※2)において伝説の舞台となった奈良の当麻寺を訪れました。平城京のごとく、南北軸に沿って都市を配置する中国由来の普遍的な秩序に、なんらかの理由で東西軸が重ねられていく和様化の過程に、折口が日本人の古代性や時空の観念というものを鋭く見抜いていることが、先述の対談の中に語られています。
当麻寺は東向きの斜面に伽藍配置をとっていますが、創建当初は南に向かって本堂(現在の金堂)を構え、両脇に双塔を据えた南北軸の形式を踏襲していました。やがて本堂が東向きの曼荼羅堂に移され、東門が正式な門となるなど、次第に東西方向の配置に重きが置かれるようになり、ふたつの方位軸が重なっていくわけです。実際に、斜面に沿って東門から少しずつ右に軸をずらしながら緩やかに上がっていくと、背後の二上山の輪郭に巧みに照準が合わせられているように感じます。しかしながら、これは日本古来の宇宙観・死生観としての、つまりは神道につながるところの「西」に由来するもので、現在の本堂(曼荼羅堂)に向かって左側の急斜面に前後して双塔(手前に東塔、奥に西塔)が置かれている伽藍配置は、形式として極めて特異で、強烈な個性を放っています。
折口は、日本に独自の信仰なり感覚が受け入れられるときには、必ずより深い古代の記憶(つまりここでは太陽の運行)が呼び起こされる、それなしでは新しいものが生まれない、といっていたようです。彼はまた、クリスマスを祝うのが好きで、つまりイエスだって日本に来ればもはや日本の神様になってしまうというわけで、南北軸を絶対的なものとする無用を説いていたようです。
天子南面という中国の道教的発想から大きく逸脱しているようでも、社会的空間の意図するものと強いかかわりをもって全体の配置が再構成されていく。斜面や地形による軸線の回転とゆがみ、仏像から当麻曼荼羅へという信仰対象の変化による本堂の移動、東西配置という古代日本的なものと流入した南北配置の重ね合せ、間取りと機能の追加要求によって変形、増幅していった曼荼羅堂の屋根架構、どれも当初の形式からずれていくことで新しい構造が生み出されていくというわけです。折口が鋭いのは、「死者の書」の中でこうした当麻寺における構造の転換に、日本の近代化において社会的な秩序を再構築していく過程を見抜いているところだ、と福田氏が指摘しているところが、またまた鋭い(笑)。
奈良駅を経由して20年ぶりの東大寺にも立ち寄りました。大仏殿の鎌倉再建や南大門といった途轍もない偉業を成した重源が、もし現代に生きたとすれば、いったいどんなことをプロデュースしただろうかと思いました。高層ビルだなんて平城京から1200年、アイデアに深化ないわけで、地球の回りをぐるぐる周る程度の宇宙旅行ビジネスもすでにちょっと古いですか。ヒトクローンは倫理上の問題があるからどうかと思うけれど、構想としては大仏にも優る人類史のファンタジーと考えられるかもしれません。
(二宮 博)
※1「空間の行間」 筑摩書房 (c)Arata Isozaki & Kazuya Fukuda 2004
※2「死者の書・身毒丸」 中央公論新社 (c)1974 Shinobu ORIKUCHI
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