玄磧坂



今は六本木ヒルズとなってしまった、テレ朝通りから麻布十番へと下る坂道、玄磧坂(げんせきざか)に面した古い4階建ての鉄筋コンクリートのアパートを、住まいや事務所として使っていたことがあった。六本木といっても、表通りから一筋入っただけなのに、どこか遠くへ来たような、木造2階建ての住宅や小さな雑居ビルが混在する不思議な静けさをたたえた道だった。江戸時代からの街路であることを伝える木製の標識が建てられたその道は、車がやっと通る程の巾しかなく、ちょっといい感じの路地空間であった。

いつのころからあったのだろうか、通りに面して金魚の養殖場もあり、水槽がならぶ薄暗い通路の中央に、鉄製の階段が屋上へと無造作に掛けられているのが見えた。そこからはいつもぼんやりとした光が落ちていて、なにやらとてもかっこよかった。また、何をつくっているのかわからない謎の町工場も建っていた。背の高いブロック塀のすぐ内側が共同風呂となっていたのだろう、夕方になると塀にはまったアルミサッシの窓からは湯気や石鹸の香りがにじみだし、プラスティックの桶の音が塀と擁壁に挟まれた細い路地にこだましていた。またすでに、再開発が決まっていたころなので、あたりには空ビルもぽつりぽつりと見うけられたのだが、まあるい給水タンクを屋根にのせた赤く塗られた古ビルは、ジャン=ピエール・ジュネ&マルク・キャロ監督の映画「デリカテッセン」的だった。遊びに来た友だちはまた別の空きビルをゆびさして「あの地下で力石が肉片あいてにパンチ練習しているに違いない」と、云っていた。それ以来、そこを通るたびに、そんなことがほんとに行なわれいるような気がしていた。

六本木ヒルズになってから、まだ、もと玄磧坂のあたりには行っていない。小川のように曲がった道は真直ぐにつけ直され、道巾は拡幅され、アパートのあたりにはレジデンス棟が建つと聞いていた。

人の記憶を司る脳内の海葉という機能は、場所や空間と一緒になったときに強く働く傾向があるという。たしかに自分および人や行為が単独で記憶されていることはない。かならずそこでの街や家などの空間とそこに置かれたものなどの情景と一緒に記憶され、忘れていたことなどもそれに触れることでまた思いだされることもある。それらの場所やものなどは日々の作業で一杯になってしまう脳内にとってはある種、PCの外付ハードディスクのような役割をはたしてくれているといえるのかもしれない。

私の記憶の中では、まだあの金魚屋も町工場も力石も道のカーブも坂道の勾配も鮮明に記憶の身体に納められている。だから、まったく別の姿にかわった玄磧坂を見たら、なにかあの当時の記憶全体が消されてしまうような気がして、いまだに近づく気になれない。今では通りの名前さえなくなっているらしい。

人はまた、街の認識を建物の輪郭、いいかえれば空隙の輪郭で無意識の内に認識しているという。すべてが変わらずにいて欲しいというノスタルジックな願望はないし、新陳代謝をしながら変化していく東京の街もきらいではない。

しかし、街路の巾や位置をつけかえ、既存の街路や空隙のありさまをまっさらに消去してしまってから計画する再開発は、人の記憶の継承を根こそぎ断ち切ってしまい、場合によっては非常に罪深い行為となるのではないだろうか。

ずいぶん前になるが、イタリアの友人から、イタリアにはTESSUTO URBANO-織物の都市-という概念があると聞いたことがある。それは、古い街に、少しづつ織物のように新しい変化を重ねていくという都市の進化の在り方(計画)のことだそうである。ある意味、近代的な都市計画がなされなかった東京では、江戸の都市構造(街路・地勢)のままに建物が建て変わるという変化を遂げ、スクラップアンドビルドを繰返しつつも結果的にはTESSUTO URBANOが実行されていたといえるのかもしれない。

また別なイタリアの知人の話で興味深かったのだが、東京は中世(近世)の都市に現代がかぶさったような街でおもしろいと云っていた。まさに江戸の都市構造に現代の建物や情報社会が同時に存在、あるいは混在するスリリングな印象だったのだろう。それが、ここ最近、一部ではあるが急激にくずされはじめているように感じている。

六本木の再開発工事が始まるころ、ここ横浜の馬車道に事務所を移した。そして、もう少しで10年になろうとする今、馬車道の事務所近く、古い倉庫やその管理棟が残る横浜の歴史的な街区での再開発計画が進んでいる。横浜にも「ヒルズ」がやってくるのだろうか。

(宮 晶子)

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