三溪園の合掌造り

横浜で三渓園と言えば、知らない人はまずいないのではないだろうか。小学校や中学校の遠足などでもよく行く所で、梅や蓮の名所としても有名だ。そして一般的には、庭園そのものよりもそこに有る建物の方が価値を認められているようだ。そのほとんどは、かつての豪商、原三溪が各地から移築したものである。

園の中は外苑と内苑に分かれていて、三溪が実際に暮らしていた内苑の建物には普段入る事ができないが、毎年夏、蓮の花が咲く頃にだけは市民に公開される。横浜で生まれ育った私にもそれらの記憶は無かったので、今年の夏に改めて行って見る事にした。

管理が行き届いた建物の中を、三溪が暮らしていた頃の事を想像しながら見て回るのは、なかなか楽しい経験だった。彼は美術界のパトロンとしても有名だった人で、ここに多くの画家達が滞在して作品を描いたり古美術を見たりしていたのかと思うと、まるで別世界を覗いてしまったような気持ちになってくるのだった。

一通り見て帰り際、ふと気が変わって外苑の建物も見て回る事にした。その中の「旧矢箆原(やないはら)家住宅」と言う合掌造りの建物に、以前とても強い印象を受けた事を覚えていたからだった。この建物は元々岐阜県に有り、ダムの建設によって湖に沈む運命だったところを移築された。三溪が亡くなり、三溪園が横浜市のものになってからずっと後の事である。

緩い坂道を上ってその建物の前に立った時、まずその大きさに圧倒される思いがした。縁側で横になって涼んでいる男性やその傍らの女性がずいぶんと小さく見えるようだった。それから横に回って土間に入ると、その暗さ、匂い、広さと言った様々なものが一緒になって迫ってきて、何とも言えず押し潰されそうな気分になった。以前に白川や五箇山に残る合掌造りの民家を訪れた時にも経験しなかった感覚である。そしてついさっきまで自分が満足していた、内苑での経験が薄っぺらなものに思えてきたのだった。

あの迫力や重みは何だったのだろうと、今でも考える事が有る。三溪が集めた他の建物が結局は個人の世界を作ってしまっているのに対して、この合掌造りにはそれに納まりきらないたくさんの人々の暮らしや思い、歴史などが染み付いていると言う事なのだろうか。正直なところ、今の自分には良く解らない。そして建築家としての自分があの合掌造りから何を学べるかと言う事も、簡単には言わない方が良いのだろうと思っている。

(栗原正明)

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